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45分授業の42分間、お地蔵さんになる我が子
「中学受験なんて親の見栄でしょ」「そこまでやる意味ある?」「コスパが悪い」 最近、ネットでもリアルでもこういう冷ややかな声、よく耳にしますよね。必死になっている受験ママをどこかバカにするような風潮があるのも事実です。
でも、そう言う人たちに私は聞きたいんです。
もしあなたの子どもが、学校で毎日、
「45分の授業を3分で終わらせて、残り42分間、ただ座ってじっとしていなさい」
と突きつけられていたら、あなたならどうしますか?
うちの娘が、まさにそうでした。
算数のプリントを配られて、わずか3分で片付けてしまう。おかわりをもらっても、また3分。先生からは「算数の時間だから他の本を読んじゃダメ、待っていなさい。」と言われる。教室の隅で何もしない『お地蔵さん』が出来上がってました。先生が悪いわけじゃない。自由にさせると「あの子だけズルい。私も遊びたい!」って言う子がクラスにいるから、という配慮なのでしょう。
私にはそれは平等じゃなくて「強制された空白」のように感じました。 この「何もさせてもらえない、思考停止の42分間」を小学校だけじゃなく、中学生になっても続くのでは?という不安。
中受叩きの声なんてどうでもいい。私はただ、娘をこの「42分間」から連れ出してあげたかったんです。
天才じゃない。だからこそ、親は危機感を持った。
誤解しないでいただきたいのですが、娘は決して「ギフテッド(天才)」ではありません。ただ、私が公共教育に対して抱いていた危機感から、幼い頃から少しずつ学習の積み重ねをさせてきました。そういった経緯で学習の先取りをしていました。
わが家のように「このままだと、学校だけでは足りなくなる」という予感を持って、中学受験を加速させている家庭は、今、確実に増えていると感じます。
実際、文部科学省のレポートを読み解いても、今の教育現場では「学力の二極化」が想像以上に進んでいます。かつては平均(偏差値50)付近に一番多くの生徒がいる「正規分布」のグラフでしたが、今は「フタコブラクダ」のように山が二つに割れている状態だと言われています。

「できない子」を一人も置いていかないように授業を組めば、どうしてもペースはゆっくりになり、内容は簡単になります。そこに、家庭で準備をしてきた子が混ざるとどうなるか。 そうして「吹きこぼれ」という名の、居場所がない迷子が生まれてしまうのです。
もちろん、小学校という集団生活の中で「協調性」や「待つという忍耐力」が大切なことは重々承知していますし、先生方が日々苦労されていることも理解しています。 中には、難しい問題を追加で用意したり、別解を探すグループワークを組んでくれる熱心な先生もいらっしゃいました。でも、それはあくまで先生個人の裁量であり、善意です。 30人、40人と多様な背景を持つ子が集まる公立小で、そこまでの個別対応を毎時間求めるのは、もはや構造的に無理があるのだと痛感しました。
「自主性が大事」なんて美辞麗句も聞こえてきますが、それはあくまで、確かな学力という土台があってこそ。 基礎を放置して繰り返し学習をさせなければ、知識は定着しません。土台がないままの「自主性」は、結局のところ、中身のない時間を量産するだけではないでしょうか。 私は教室の限界を、肌で感じていました。
「透明人間」を演じ、空気を読む子供たち
吹きこぼれている子にとって、一番辛いのは「暇なこと」だけではありません。クラスメイトへの「遠慮」という、子供心に重すぎる配慮です。
「みんなで考えよう」というグループワークの時間。娘は、自分の一言でクラスメイトたちが考えるのをやめてしまった瞬間に気づきました。その日から、「自分が答えを口に出せば、友達が悩んだり話し合ったりするプロセスを奪ってしまう」と、幼いなりに悟ったようです。
「私が言ったら、みんなの時間を奪ってしまう……」 そう考えて自分の意見を飲み込み、黙る。授業の主役であるはずの時間が、いつの間にか、周囲に合わせて「自分を消す時間」に変わっていました。
学校の授業中、娘はほとんど手を挙げませんでした。参観日でも手をあげたところを見ることはほとんどありません。
「なぜ手をあげないの?絶対わかってるよね?」って聞いたところ、挙手しても序盤では先生は当ててくれないからという理由のようです。クラス全体が停滞し、「もうそろそろ正解を出しちゃいたいな」「先に進みたいな」というタイミングでだけ当てられる。あるいは、先生から目で「……そろそろ、手を挙げてくれない?」と合図を送られる。 そんな、授業を円滑に進めるための「空気を読む役割」も背負っていました。
高学年になると、よくある「ミニ先生」の役割も一筋縄ではいきません。教える側と教えられる側という固定された関係は、多感な時期の友人関係に、言葉にできない微妙な空気感を生み出すことがあります。
同級生と話すときでさえ、自分の知識をひけらかさないよう言葉を選び、気を使いながら話す娘の様子を聞いて、親として「これでいいのだろうか」と少し疑問を抱かずにはいられませんでした。
「無意識に手が挙がる場所」を求めて
そんな娘が、塾では別人のようでした。 ある日、塾での様子を本人から聞いて驚きました。あんなに学校では空気を読んで黙っていた娘が、塾の授業では「無意識に、勝手に手が挙がっていた」と言うのです。
誰に気兼ねすることもなく、知りたい欲求を全開にできる。
勉強ができることを隠さなくていいし、お友達とテストの点数で競い合ってもいい。
そこには、娘にとっての本当の「心理的安全」がありました。
一方、学校では勉強以外は見事なまでに「落ちこぼれ」でした。 徒競走では遅い子グループでも1番になれず、ドッジボールでは男子が気を遣って最後まで当てずに残してくれる。家庭科は不器用で周りに迷惑をかけ、技術では友達が手伝ってくれる……。通知表の体育には、「がんばろう」の文字がしっかり刻まれていました。
そんな娘にとって、関西の公立中学の「内申点(全教科パーフェクト主義)」は、あまりにも高すぎる壁です。
得意なことは目立たないよう隠さなきゃいけないのに、苦手なことは「みんなと同じように平らにならせ」と強要される。このデコボコな個性を無理やり平準化しようとするシステムを前に、私も娘も、最後までやり遂げる自信がありませんでした。
さらに、中学受験が盛んな地域では、学力の先頭集団が私立へごっそり抜けていきます。 その精鋭部隊がいなくなった後の中学校が、果たして切磋琢磨できる環境と言えるのでしょうか? 娘には「自分が得意なことを隠さなくていい。そして、不器用でも努力することを笑われない環境」に身を置いてほしかった。それが、私が中学受験を決意した、何よりの理由です。
以前、『中学受験は親が敷いたレール』と言い切る勇気 という記事を書きましたが、私がそのレールを敷こう覚悟と決めた背景は、こうした娘の学校や塾での姿があったことがきっかけの1つとなっています。
夢が決まっていないからこそ、可能性を広げる
親子で必死に塾のスケジュールと課題を回す日々、時には「ここまでして、一体何になるんだろう」と夜中に自問自答することもありました。わが家は別に医者の家系でもありません。跡を継がせなきゃいけない稼業があるわけでもない。 娘の「将来の夢」だって、毎年誕生日に書かせていましたが、コロコロ変わる(笑)。
それでもなぜここまでしたのか。 それは、いつか娘が心からやりたいことを見つけた時、環境のせいでその道を諦めてほしくなかったから。 ただ、それだけです。
中学受験は確かに過酷です。親も必死。
でもそれは、決して親の見栄などではなく、わが子の「可能性」を信じて、閉塞感から連れ出す「脱出劇」のようなものでした。
そして今、中学受験を終えた娘は、私立中学で驚くほど「のびのび」と過ごしています。
あんなに「暇」を持て余していた日々が嘘のようです。 たしかに私立中学は、入ってからも課題が多く、小テストや行事の準備で毎日バタバタしています。「暇でお地蔵さんになる」なんて時間は、1分たりともありません。
でも、娘は本当に楽しそうです。 周りを見渡せば、同じ学力、あるいはそれ以上の力を持った友達が当たり前のようにいて、誰もが「勉強するのは当然」という顔をして机に向かっている。 勉強だけでなく、趣味や部活、何かに猛烈な情熱を持っている子ばかりで、その熱量に心地よい刺激をもらっているようです。
「正解を言ったら空気が壊れるかも」なんて心配をする必要もありません。 不器用さを隠す必要もありません。「自分はここにいていいんだ」という全肯定の環境。 私たちが何年もかけて、親子で掴んだ「環境」の正体は、この「自分の熱量を100%解放してもいい場所」だったのだと思えています。
最後に
「楽しければいい」「無理しなくていい」「好きなことだけすればいい」
そんな優しさが溢れる今の社会で、あえてわが子に「努力の負荷」を強いるのは、親としても勇気がいることです。
でも、もし今、迷っているお母さんがいたら伝えたい。 お子さんが教室で「透明人間」になっていませんか? その輝きを、環境のせいでくすませてはいませんか?
中学受験は、たかが受験。
人生のすべてが決まるわけではありません。
でも、そこには「努力することが当たり前」という、宝物のようなコミュニティが待っています。

「中受なんて意味がない」
そんな外野の「中受叩き」なんて、聞き流していいと、私は断言できます。